

■4、スイーツ王国ヒストリー
近年、札幌はスイーツ王国と呼ばれるようになりました。ケーキ作りに適した環境、特に、気候や恵まれた原料は王国の基盤となっております。原料となる乳製品、小麦粉、砂糖、の生産は明治以降、開拓使に雇われた外国人によって促進されました。乳製品は1876年(明治9年)札幌に移り住んだエドウィン・ダンにより牛、豚の飼育方法とバター、チーズ、練乳の製造技術が伝えられたのでした。
また、小麦粉の機械製粉は札幌が始めてで、1873年(明治9年)アメリカから石英製水車駆動式ひき臼が輸入され、創成川の流れに水車を浮かべ小麦粉の生産を始めました。日本における甜菜糖業は、1879年(明治15年)に官営工場が北海道内2箇所(現在の伊達市及び札幌市)に建設されたことに始まりました。これらの工場は1901年には閉鎖されましたが、1919年 (明治42年 )に北海道製糖(現 日本甜菜精糖)が帯広市郊外に製糖工場を建設、その後、ホクレン農業共同組合連合会 と北海道糖業を加わり現在に至っています。
札幌で初めてケーキを作ったのは!
1877年(明治10年)3月2日、札幌農学校(現 北大)に着任したW・P・ブルックスの歓迎晩餐会で、ホーレス・ケプロンのお抱えシェフであった渡辺金次郎がデザートとして、アイスケーレン(アイスクリーム)とプロムケイキ(ドライフルーツを入れた焼き菓
を作ったとの記録があります。(日本語表現は当時のまま)洋酒で漬けたドライフルーツをいれたプロムケーキ(イメージで再現)
その後、渡辺金次郎氏は市内でレストランを経営、ケーキも作っていました。
写真は明治36年横浜からやって来た岩井安栗が開いた洋食店「米風亭」(南1条西2丁目)アイスクリームの右に西洋御菓子の文字が見えます。
クリスマスケーキの登場
明治43年不二家がクリスマスケーキを発売イギリス風のフルーツケーキに砂糖で作ったアイシングを塗ってアラザンをちりばめたケーキでした。
大正7年(1918年)不二家がシュークリームやエクレアを発売。
大正8年、森永製菓がチョコレート、ココア製造開始。
大正10年グリコ、ユーハイム開業。
第一次世界大戦で戦勝国となった日本にヨーロッパの生活用様式が取り入れられるようになって、モボ・モガ(モダンボーイ・ガールのこと)と呼ばれた若者により洋装、洋食が持てはやされ、カフェの流行から身近にケーキを楽しむことも始まりました。この時代、流行したのが和洋折衷のケーキ「シベリア」。これはカステラで羊羹又は餡をサンドしたものでした。カフェでコーヒーやミルクでこの「シベリア」を食べるのが粋だったとか。ケーキのスタイルも仕上げ材が甘いだけの砂糖のアイシングからバタークリームへとレベルアップしていったのです。しかし、一般にはまだ煎餅、饅頭、団子などの和菓子が主流の時代で、それも来客や贈答などの特別な時以外、めったに口にできる物ではありませんでした。
アイシングのケーキ
バタークリームケーキ
当時、全国で大人気だった、シベリアケーキ
あがた森魚が昭和48年にリリースしたアルバム「レ・ミゼラブル」に収録された「最后のダンスステップ(昭和柔侠伝の唄)」という曲に「シベリアケーキ」が登場します。
シベリアケーキの由来はカステラの部分が雪原、餡の部分がまっすぐに伸びたシベリア鉄道とのことです。
大正末期には札幌でもクリスマスケーキが売られていました。
1924年(大正13年)札幌「亀屋」のクリスマスケーキのちらしです。12月の中頃になると馬ソリにピエロに扮した御者が乗り、サンタクロースを後ろに乗せてケーキの宣伝をしたそうです
ジャムロール
ワッフル
昭和初期の大衆的なケーキはシュークリームの他ジャムロール、ワッフル(写真)。
ワッフルは現代のベルギーワッフルとは違い和菓子のどら焼きにカスタードクリームを入れたようなもので冷蔵庫のない当時は夏季には餡やジャムを入れて売っていました。コロンバンと千秋庵のものが有名です。
昭和6年(1932年)を契機に戦時体制に入り、満州事変,日華事変と戦火は拡大し産業はすべて軍需が優先し、諸物資の経済統制が強められていったのでした。洋菓子の業界も主原料である砂糖や小麦粉、バターなどがいち早く統制品となり、外国からの輸入も止まり甘いものはしだいに姿を消していきました。特に西欧文化を背景としているケーキ類は、外国語の使用を禁じ国粋をよしとする国策と風潮の中で食べられない時代を迎えたのでした。
慰問袋
「皇軍大勝」の文字が入った慰問袋用金平糖
こんな中、菓子屋にとって救いは、中国大陸の戦地の兵士に贈る慰問袋(写真)に欠かせないお菓子の販売で、中には生活必需品とともに飴、キャラメル、チョコ、ビスケットなどのお菓子が入れられました。生活物資の不足はひどくなり、札幌でも昭和14年(1939年)原料の配給が少なくなり小規模店は原材料を持ち寄って菓子を作る協業化を余儀なくされました。太平洋戦争が始まると原材料の入手が全く出来なくなって軍隊に納入する業者を除く多くの店が休廃業しました。
当時のお菓子です。アニメ映画「火垂る墓」に出てくるドロップ
昭和20年(1945年)戦争が終わり、札幌にもアメリカ軍が進駐して来ました。その年のクリスマス、駐屯地でのミサを終えた兵士たちは「すすきの」の歓楽街へ繰り出しにぎやかなパーティを催しました。そこで彼等は求めました「ケーキないの?」あるはずはありません毎日の食事すら満足に食べられない時代だったのです。しかし、アメリカ進駐軍には逆らえません、材料を工面して作ったと聞いております。この、クラブやキャバレーでクリスマスを祝いケーキを食べるアメリカ兵士の習慣はすぐ日本人にも伝わり、また「すすきの」の歓楽街の店ではクリスマスには「ケーキのお土産がつく」というサービスシステムが生まれ、1950年頃までクリスマスケーキはお父さんが「すすきの」でお土産にもらってくるものでした。
甘いバタークリームと派手な仕上げの当時のケーキ
すすきのにあった亀屋のXマスケーキのチラシ(1951年)
アメリカの食文化は日本中に広がり、手軽に作られるカップケーキやロールケーキが店頭に並びました。この頃はまだスポンジにバターを使用することはまれで、「三同割り」と呼ばれた卵、砂糖、小麦粉が同量のスポンジに甘いバタークリームや卵白で作ったメレンゲを塗ったものでした。
スポンジとバタークリームの組合せが一般的だった頃、ムーランとはフランス語で風車のことでスポンジケーキにバタークリームを対角線に絞り風車をデザインした「ムーラン」はパリのムーランルージュを連想させるエキゾチックな仕上がりで「これぞ、本格派ケーキ!」と職人たちは腕を競いました。材料の乏しかったこの頃は、職人の腕の見せ所は流麗な「バタークリームの絞り」の技術(パイピング)で、味は甘いということがおいしいことのように考えられていました。当時はまだ冷蔵庫がなく、暖かくなると、魚屋のように大きな氷の上にケーキをのせた皿を置いて販売していた店もありました。
真夏になると、スポンジケーキの製造を休み、代わりにロシアケーキをケースに並べました。このロシアケーキ、大きなクッキーのようで、甘い、硬いとあまり人気がなかったようです。
「スイーツ王国History」 2010.3.19 (コラムニスト 手作りケーキシャモニー 堀江社長))