さっぽろスイーツカフェ sapporo sweets cafe





さっぽろスイーツ 40年前のケーキ

さっぽろ地下街の正式な誕生日が11月16日

さっぽろ地下街40周年記念スイーツ 40年前のスイーツを再現


<近代洋菓子と現代洋菓子の境目の時代>
(写真 モンレーブ 北海道洋菓子協会赤平前会長のお店、現札幌洋菓子協会会長 田中氏が修行したお店でもある)

1976年札幌 モンレーブ洋菓子店昭和30年代から40年代は、まだ現在の冷蔵されたケーキと言える商品は世に出ておらず、重めのパイ生地やドライフルーツを使用したフルーツケーキ、イギリスからやってきたパウンドケーキや和菓子が起源のカステラ生地を 応用した生地にジャムやバタークリーム、マーガリンなどにドレンチェリーなどを飾った洋菓子、また非常に甘いフォンダン( 砂糖を再結晶させたもの)を表面に流した洋菓子が多く製造されていた。また、それらは数日常温で保管できると いう特徴があった。 札幌では、どっしりと重い「ウィークエンド(下写真)」、ラム酒が利いた「サバラン」、子供から大人まで「レモンケーキ」、キャラクターの「たぬき(ぽんぽこ)」、定番「バターロール」、「モンターニュ」と呼ばれるケーキが流行った。


当時は、高度成長期であり洋菓子業界は冷蔵技術が進む中、それまでは常温で保存期間が長く取扱いが慣れていた洋菓子が主流であったが、その後、菓子職人の勇士たちは、あえて保存期間が短く廃棄ロスが生じるリスクの大きい「生ケーキ」を日本人の手で研究・開発をし、消費者に「喜びと感動」を与えたいと願った。 いわゆる冷蔵ケーキへのチャレンジである。
彼等は「新鮮で美味しいものは選ばれる」を信じ、同業者や仲間には進んで生クリームと果物、それに合うきめの細かいスポンジ生地を使用したレシピを広く公開した。
それは、ジェノワーズ(西洋のスポンジ生地)とは異なるものであった。
結果、消費者は過去の甘く重い洋菓子よりも、軽くふんわり口の中で溶ける「生ケーキ」を選ぶようになった。 各店で作られた、黄色い「モンブラン」、パイナップルとチェリーが特徴の「ハワイアン」、「カスタードプリン」、「オムレット」、「ワッフル」、「パフェ(オムレットに似ている)」そして「苺のショートケーキ」が完成した。






 
40年前は洋菓子にとって、大切な節目の時だった。


< 左 札幌洋菓子協会会長 菓子の樹 社長 田中英雄氏。 右 パールモンドール社長 下出邦博氏>  3/4日 インタビュー 事務局 渡辺

渡辺 :40年前、私はまだ小学校の低学年であり、記憶が定かではないのですが、上流階級の家庭には「おやつの時間」らしきものがあり、初めて友人の家に呼ばれたときにママと呼ばれた方がケーキを切り分けている姿を想い出し、まさしくそれは田中会長が作られた目の前にあるウィークエンドだったような気がします。

田中氏 : 「おやつの時間」みたいなハイカラな言葉は、作ってる者には無かったけれど、新しい言葉と、新しい世界が目の前に待っているような夢の時代でもあったよ。でも、まさか、今、こんな事になるとは思わなかった。何十年も開いてない本を読んでると、出てくるわ、出てくるわ・・・。ウィークエンドだけでも大変な種類があったよ。
下出氏 : うちのお店は40年前のケーキを今でも普通に販売しているんだけれど、あの時代をあえてクローズアップする事は意義のある事だと思いますよ。あのとき生きた職人は決して忘れることのない時代ですからね。
渡辺 :そういった意味では、「さっぽろ地下街40周年記念」事業のおかげでもありますね。
田中氏 :でも、当時のケーキを作ってくれと頼まれるとは思ってもみなかった。さっぽろスイーツカフェならではだな。
渡辺 : ありがとうございます。 (皆さんの作った40年前のケーキを目の前に置く )
下出氏 : うお!たぬきだ!
ハワイアンもある!なつかしー! これは誰が?
田中氏 : たぬきはシャトレーヌの中川さん、ハワイアンは俺。
下出氏 : バタークリーム?
田中氏 : 昔のままだよ。体は覚えているもんだね。
下出氏 : この銀紙(アルミホイル)、モンブランも同じだけど、今の職人は巻けないんですよ、簡単に見えてシワになりやすいから難しい。すごい!さすがだなぁ。
田中氏 : 昔は最高のケーキだと思っていたけれど、外観はパイナップルの上にチェリー乗せただけだもんなぁ、それでハワイアンだよ。今の時代なら犯罪だよなぁ。 
「ハワイ」という単語の重みが高度成長期だったんだよ。
渡辺 : 「一生に一度はハワイに旅行へ・・・」みたいな。
田中氏 : 絶対に行ける場所だとは思っていないんだなぁ。だから、なんでも「ハワイ」を付ければ売れると思った時代なんだよ。 
下出氏 :確かにハワイのついた看板が多かった・・・。
渡辺 : 会長、中身のクリームは今風にアレンジしてますよね。
田中氏 : 美味しいバタークリームに代えてるよ。とてもじゃないけど昔のままでは商品にならないよ。昔はコンパウンドといってショートニングとマーガリンを混ぜたもので今のものと質も大夫違うからね・・。
下出氏 : 美味い!
渡辺 : 美味い!(笑)
渡辺 :このふんわりスポンジにたっぷりのクリーム挟んだ「パフェ」はモンレーブの赤平さんの作品です。
下出氏 : 生クリームがこの世に出て、お客さんに沢山食べてもらいたかった、うちの「パリジェンヌ」もそうで、そういった生クリームの象徴のようなケーキだったんですよね、ね、田中さん。
田中氏 : そうだよ、冷蔵ショーケースがこの世に出て、洋菓子の全てが変わろうとしていた、そんな時代の象徴のようなケーキだよ。スポンジは口の中で溶けるものが条件だったよね。オムレットとかカスタードを入れたワッフルなんかもそう。フランスのジェノワーズと比較したら粉の量が少ない日本独自のスポンジだった。なんたってフランスの職人が真似出来ないんだもの・・・。
下出氏 : スポンジに、ミキサーなんて使わなかったですよね。腕がツルほど皆で並んで手で泡立てました。機械じゃ加減が分からないんですよ。今では機械は当たり前でしょ。厳密に言うと、卵の「こし」は全て違うし、気温や湿度は毎日違うんです。ですから手で加減する、それこそ手加減、さじ加減ですよね。先代の父親からは「口溶け」に関しては厳しく指導されましたものです。
渡辺 : 凄いなぁ、 パティシエを目指す若い子達にも、こういったパイオニア精神を伝えていきたいですね。ケーキを作るというより商品を作る気骨みたいなものを感じますね。材料がよろしくない中での技術革新ですから「拘り」なんて軽い言葉じゃ済まされないですね。
下出氏 :当時アメリカが余った小麦粉を買えと日本に言ってきたんですよ。日本はそれによって米の減反政策に踏み切った。弁当から給食パンに代わったでしょ?
渡辺 : ひどい不味かった記憶があります。「こっぺパン」とか言ってましたけど、今でも食べたいとは思いませんもの。
下出氏 : 質の悪い小麦粉を使ってケーキやパンを作らなきゃいけない時代でもあったんです。バタークリームだけが悪かったわけじゃなかったんです。
渡辺 : なるほど~。 今のように良い材料を選べて使用できるということは幸せなことなんですね。
ところで、札幌の洋菓子のルーツは何処なんですか?
田中氏 : ほとんどは小樽からだよね。札幌は元々和菓子屋が洋菓子店に鞍替えすることはあっても、洋菓子店からスタートする度胸のある人が少なかったんだと思うなぁ。
下出氏 : パールモンドールのルーツも小樽の館さん。 父が25年修行をして札幌にフランセというお店を出し、私が東京のモンドールで修行をして、帰って来たときにモンドールに変更、そして今のパールモンドールがあります。


   ( パールモンドールの前身フランセ、下出氏の父下出正三氏 と、その後 モンドールという名の貴重な写真)

田中氏 : 俺は昭和39年に小樽の千秋庵に丁稚で入って、昭和43年に横浜に行って修行、昭和50年に札幌のモンレーブに入って昭和59年に菓子の樹を作ったから、やっぱりルーツは小樽だね。 札幌の洋菓子店は辿っていくと小樽からが多いよね。
渡辺 : モンレーブさんの赤平社長も小樽出身ですよね。 きのとやさんも職人さんは館さん出身だった。千秋庵さん出身の方も多いですね。
田中氏 : そだ。 ステラ★マリスの隅田さんも千秋庵だ。シャトレーヌの中川さんはコロンバンだったけか・・。 でも小樽ばかりでもないかな・・。 
べんべやの父さんはくるみやで修行したから神戸だし・・・そういやくるみやも札幌に来て40年だな。
渡辺 : 皆さん、有名店ばかりですね。
田中氏 : そりゃ、そうだよ当時は暖簾(のれん)で働いたから。今みたいに簡単にお店は開業できないんだよ。名の無い店では何処の業者も仕入させてくれなかったんだよ。「何処の店で修行した?」と聞かれる。暖簾は看板だけではなく保証人とか担保のようなものでもあったんだ。暖簾を傷つけちゃバチが当たる。だから過去に働いた店の悪口いう奴は、店も出せない時代だった。昭和40年代でもまだそうだった。
下出氏 : 自分が傷ついても暖簾だけは傷つけられない。
でも、あの時代、1人で北海道を出て東京の修行ってのは辛かったですよね。遠い先の独立を目指しながら・・・・・。
田中氏 : 寺で修行してるんじゃないかと思ったことあるよ(笑) 先輩は厳しいし、親方は鬼の様だった。
でも、商品が違ってたなぁ、東京、横浜、神戸は北海道より10年進んでた。
渡辺 : 札幌の場合、和菓子屋から洋菓子に代わっていった時代というのは、40年前ですか?、もっと後ですか?
下出氏 : 後ですね、
田中氏 : 後なんだよ。丁度40年前くらいに冷蔵ショーケースがこの世に出てきた。それまでの洋菓子は常温で保管できるパウンドケーキやバタークリームのものが多く、庶民は和菓子の方がなじみがあったんだと思うなぁ。 でも、冷蔵ショーケースが導入されても、冷蔵のケーキのレシピが極端に少ない。「アイスクリーム食べたほうがマシ」と言われる始末で、和菓子屋は「もう少し様子を見よう」、一方で洋菓子職人は必死で冷蔵の商品開発を行ったんだよ。
渡辺 : 冷蔵ショーケースは高価ですよね、その他、冷蔵ストッカー、冷凍ストッカー、オーブンやミキサー、パイローラーなんかの設備投資も考えると、鞍替えにはリスクが大きかったんでしょうね。
田中氏 : パイローラーを買う人居なかったかな、高いもの・・。パイは手織りだったよ。 なにせ冷蔵の時代になって洋菓子店の設備投資は一気に増えたな。
下出氏 : 冷蔵になってからの洋菓子屋、ケーキ屋を開業するのは、当時としてはもの凄い決断力が必要でしたよ。
コストをかけても「売れないだろう」、「一日でいたむケーキを年に何回食べられるのさ」 とか言われてましたから、
売れるか売れないか博打のようなものだったんです。皆一斉なので前例が無いんですよ。
渡辺 : しかし、売れた。
田中氏 : 一日でいいから休ませてくれと神様に祈った。 生クリームが憎く感じたこともあった。


(左右 パールモンドール)

田中氏 : 俺は、札幌地下鉄南北線終点の北24条駅のモンレーブ時代で、地上の店から駅入り口階段下まで並んでて、この世でこんな事が起こるのかと疑ったよ。当時で25万から30万、40万って事もあった。それも毎日だよ!?(物価は今の1/3  苺のショートケーキが80円の時代)
下出氏 : 凄かったですねー。並ぶに並びましたね、東京よりも凄いと思ったこともありました。新しい時代がやってきたのだと思いました。
渡辺 : このときが「作ったら売れる時代」と言われていたのかもしれませんね。でも、本当は大きなリスクを背負って直向に仕事に打ち込む開拓精神がなければ成しえなかった。希望なんてものは自分で作るしかなかった。その事をもう一度再認識できたのかもしれません。
札幌は地下鉄を作り、地下街、大通りの開発を行い、オリンピックを開催、デパートと呼ばれた百貨店の催しものも素晴らしかった。


(左右 パールモンドール)

札幌という街の開発と、洋菓子の開発は繋がっていた。 

ちょっと無理のある締めでしたかね・・・(笑)

下出氏 : この40周年の機会は私たちにとっても、これからのパティシエにとっても、チャレンジする意味で得るものは多いと思いますよ。
田中氏 : なんといっても楽しいね。昔を振り返って作ってみると元気が出てきたかな。
渡辺 : ありがとうございました。 意義があったようです。
3月12日から、商品、宜しくお願いいたします。楽しみにしています。